「衛生仮説」をご存じでしょうか。衛生面が良すぎる環境下では免疫がウイルス、細菌、真菌などの微生物から刺激を受けず、このために機能が低下するという学説です。自身の体の防御システムを生かすには、さまざまな微生物への曝露による“訓練”が大切。家庭菜園など「土いじり」には、そうした効果もあるといいます。そこで、久留米大医学部免疫学講座主任教授の溝口充志氏に、土と免疫の関係について伺いました。
話を伺ったのは?
久留米大医学部免疫学講座主任教授
溝口充志氏
1989年に久留米大医学部を卒業。92年に米国・ハーバード大医学部マサチューセッツ総合病院へ留学。同大医学部で97年から助教、2003年から講師、11年から准教授を務めた。14年から現職。大学院医学研究科長を兼務。
目次
微生物への曝露 その刺激が強化に
「衛生仮説」は1989年に発表され、最初は大家族ほど自己免疫疾患やアレルギー疾患にならず、感染症にもかかりにくいという説でした。大家族では子どもが至る所で違う病原体をもらってきて、家族全体が常に曝露するため、免疫が刺激されて強くなります。その後、家畜を飼う家庭も同様だと分かりました。
最近では「アーミッシュ」と「フッター派」というキリスト教徒に関する米国の論文があります。どちらも19世紀に欧州から北米に移住し、一般社会との接触を断った特殊な自給自足生活を送る人々で、主に農業を営んでいます。
ただし、アーミッシュは現在も宗教上の決まりに従って自分の手や牧畜を使って農地を耕し、輸送も馬車を使う一方、フッター派は機械化しています。この結果、アーミッシュのアレルギー発症率は一般人の5分の1以下。土に直接触れないフッター派は、都会に暮らす人たちと変わりがなかったのです。
フィンランドでは2008年から都市部の約半数の幼稚園の園庭に芝生を植え、周囲には林や畑を設けて子どもたちに土いじりをさせました。すると、食物アレルギーやぜんそくが減ったと政府機関が報告しています。私たちの身近な取り組みでは、福岡県が自然や動物との触れ合いを通した健康づくり事業「ワンヘルス」を推進しています。
病原体を記憶 バランスにも効果
免疫細胞は病原体を記憶すると、少し違う病原体でも敵と見なして攻撃します。病原体にもなり得るいろいろな微生物への曝露、つまり訓練が不足すると限られたものにしか攻撃できません。
免疫バランスにも影響します。強力な免疫細胞であるTh1が自分の体を攻撃すると自己免疫疾患、それを落ち着けるTh2が強すぎるとアレルギーを起こします。そのバランスを取るのが制御性T細胞ですが、この細胞はTh1やTh2が刺激を受けて動くことで初めて動き出します。病原体による刺激は、制御性T細胞の訓練になるのです。
もちろん、不衛生な環境が良いわけではありませんが、衛生状態が良すぎても免疫に影響します。多くの人が衛生面に気を付けたコロナ禍の後、さまざまな感染症が出ています。
例えば「人食いバクテリア」と呼ばれる溶血性レンサ球菌は特殊な菌ではなく、ほとんどの人の喉にいます。しかし、菌が傷口から入り、免疫が低下していると劇症化します。RSウイルスや手足口病は例年ほぼ同数の感染者がいたはずですが、従来は症状が出ていなかったのが、現在は免疫が弱って症状が出るために大量発生したかのように見えるのです。
もちろん注意点も シニアは破傷風対策を
土いじりの効果は、多様な細菌に曝露できることにもあります。腸内には100兆個、3千から3万6千種類の細菌がいて疫と深く関係しています。それぞれ1gの便と土を調べると、土中には腸内とほぼ同じ数と種類の細菌がいることが分かりました。
ただし、その中には破傷風菌など悪い細菌もいる可能性があります。破傷風ワクチンが定期接種となったのは1968年で、ほとんどのシニアは接種していません。また、接種しても10年ほどで効果が薄れるので、一度、ワクチンを打っておく方がいいでしょう。この菌は傷口から入るので、傷がある場合は土をいじらないでください。肺の非結核性抗酸菌症も増えています。乾いた土が舞い上がると原因菌を吸い込みやすいので、土を使う時は湿らせてください。
本来、衛生仮説が証明する効果はシニアよりも幼児にあります。幼児期に土に慣れ親しむことで、アレルギーや自己免疫疾患が劇的に減るのです。シニアには免疫の訓練に加え、認知症やフレイルの予防も期待できるでしょう。お孫さんなど子どもたちと一緒に土いじりを楽しむ機会があれば、一石二鳥のような効果が見込めるかもしれません。
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