ふくすま:Vol.2-1 記者の介護体験記「老いとは何か」教えてくれた父

様々なニーズに合わせて多種多様な施設がある中、どのように選んでいくのだろうか。
記者の実体験をもとに、介護と住まい選びのリアルをお伝えします。

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2年間にサ高住→グループホーム→介護医療院

今年2月、父をみとった。筑豊地区の郵便局に42年間勤め、貯金を集める仕事に励んだ父は、よく働く人だった。おかげで私は東京の大学に行かせてもらい、卒業後、西日本新聞社で働くことに。父は人生最大の恩人だ。大した親孝行はできなかったが、人生の最期を穏やかに迎えてほしい。2年間に3軒の老人ホームで余生を過ごした父の姿を思いながら、私の介護体験を紹介します。(吉塚哲)

体力と気力の衰え

 最初は自宅から7~8㌔離れたサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に入った。定員20人。2階の部屋を借りた。日当たりがよく1人で暮らすには十分な広さ。トイレは室内にあり、食堂と風呂は1階。まかない付きの「老人アパート」だ。
 家賃3万5千円、食費4万円、共益費1万2千円、生活相談費1万円、デイサービスの利用料1万3千円、入所翌月の2022年5月の支払額は計11万円。毎月の支払いは、ほぼ年金の枠内に収まった。

 70代半ばまで、父は私と腕相撲をしても互角の勝負ができた。だが、80代になると、体力も気力も衰えていった。2020年8月、がんが見つかり、胃を半分切除。運転免許を返納し、手術から5カ月後に母が亡くなった。
 入所直後、父は激しく抵抗した。職員に「自宅に帰る」と怒鳴り、施設を飛び出した。しかし、アルツハイマー型認知症の父は、帰る道が分からずに戻ってきた。

 父は近くのスーパーでタイのお頭を購入し、あら炊きを自分で作って一杯やるのが楽しみだった。しかし、免許返納で一人で買い物に行けなくなった。退職金をつぎ込んで建てたマイホームにも別れを告げた。
 そうさせたのは私だ。申し訳ないと思いながらも、もはや1人暮らしはさせられなかった。

排せつ処理が困難に

 「微熱があります。病院に連れて行きましょうか」。入所から3カ月後、私の携帯が鳴った。「お願いします」。嫌な予感がした。そして的中した。
 父はコロナに感染していた。集団感染が起きたら、施設は大変。車で30分ほど離れた総合病院に隔離され、2週間会えなくなった。
 幸い、後遺症もなく回復した。退院日、私のことを忘れていないか不安だった。父は白髪が増えた私をしげしげと見つめ「あんた、年取ったね~」とつぶやいた。思わず笑った。

 「いつ転倒するかわからないから、心臓ペースメーカーを付けましょう」。コロナの診断で父に不整脈があることが判明した。かかりつけの医師は手術を勧めた。
 どうすべきか。親族の話し合いでも意見が分かれたが、最終的に見送った。胃がんを手術したときほどの体力が、もう父に残っていないと、判断したからだ。

 父の容体は日増しに悪くなった。自力歩行が難しくなり、排せつ処理ができない。トイレやベッドを汚すことが多くなる。2023年1月の支払額は15万2千円。請求書には洗濯11回、更衣介助17回、排せつ介助19回と記載されていた。
 自力で生活できる状態ではなかった。たまたま、近くの「グループホーム」(GH)に空きがあり、2月からそこに移った。認知症の高齢者が共同生活を営む場。2ユニット18人と少人数のため、介護者の目が行き届いていて、安心した。排せつの問題は、24時間体制でおむつを交換してもらえた。

 当時、コロナが横行していたため、面会はガラス越しに15分間。GHの支払いは介護度が「2」から「4」に上がったこともあって、サ高住より高い月額12万~14万円かかった。

「燃料の少ない飛行機」

 GHに入居後、父は寝たきりの日が増えていった。胃がんの手術後、体重が10㌔減り、両手足にむくみが生じて風呂に入るのを嫌がった。
 手術から3年後の夏、定期検査を受けた。がんの転移はなかったが、血液検査の数値はどれも悪化、手足のむくみが改善することもなかった。
 「お父さんの状態は『燃料の少なくなった飛行機』。これから高度が下がっていきます」と主治医。余命がどれくらいか、しつこく聞く私に困った顔をしながらも「年が越せれば、よいのですが」と漏らした。
 「人生最大の恩人」との別れが迫っていることを感じた瞬間だった。

 3カ所目は「介護医療院」。父が42年間働いた郵便局の近くにあり、不思議な縁を感じた。地元の総合病院だが、令和になって高齢者の介護業務も行う施設に変わった。
 医師が常駐し、長期的な医療サービスが受けられることがセールスポイント。だが、父の場合、延命の治療はせず、穏やかに余生を送ってもらう―これが目的だった。
 毎月の支払いは約10万円。銀行振り込みではなく、病院の窓口に持って行く決まりだったので、毎月、父の顔を見に行った。

「ご家族の方は会いに来てください」。2024年2月9日、妻と娘を連れて駆けつけた。父は一人部屋に移され、面会の時間も30分に延びていた。
 ご飯を食べない日が何日も続いていた。しかし、この日は、私たちの姿を見て看護師が勧めるおかゆを3~4口食べた。
 「来てくれてありがとう」。父なりの気配りだったのかもしれない。
 翌日の夕方、父は逝った。89歳8カ月。死亡診断書には「老衰」と書いてあった。
 その文字を見たとき、父の言葉を思い出した。

88歳の米寿の祝いを自宅で行った時のこと。大好きな冷酒を準備して、さんまの塩焼きを食べさせた。ご機嫌の父は大きな声で話した。
 「本当に俺の人生は恵まれて幸せやった。もう何も思い残すことはないね」。
 この時に撮った写真を遺影にした。安らかに旅立った父。最後の最後に親孝行はできたかなと思っている。

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